20190129
昨年の12月に東大で行われたバトラーの講演がとても良かったのであれからよく思い出す
別に概要を書くつもりではなく(そんなの誰かがツイッターでとうにやっているだろう)印象的だった一言だけ
(確かケア理論と相互依存性の話のくだりで、)
「傷つきやすさというのは、強さの対の意味ではない」
と言っておられ、この一言で私はとてもとても、とても救われた
悲傷性は私たちが世界に応答できる能力であり、美しさに気づくこともでき、また怒りを表面化できる能力である、と。それは同時に正義を求めるという意味にもつながり、ある意味では傷つきやすさがあるからこそ前進できることもある(その例が政治ね)
つまり抵抗における傷つきやすさは決して「弱い」のではなく、「強い」のだと
ジェンダーやセクシュアリティについて考える際に、何気ない日常(つまりは社会)に敏感になる(広義でいうならば関心を持ちつづける)ことがとても重要だと私はずっと思っていて、それはつまり上記の悲傷性のこと、こんなにしっくりきたのは久しぶりだった
なぜならこの関心を持ちつづけるということも、悲傷性も、同情とはまったく違う話なのだ
つまり、社会に対し常に関心をもつということは、決して弱さには直結しない
毎日当たり前のようにテレビをつけ流れるニュース、何気ない日常会話、どこにでもあまりにも理不尽な話が、多すぎる(先日の某大学生不起訴も遣る瀬無い)
その中で私はいちいちニュースを見て怒ったり悲しくなったりする(日常会話でも男性に圧倒的にバカにされたりすると家に帰ってモノにあたるなどします)
すぐ悲しくなる自分は陰鬱で暗くて嫌な性格だなとずっとずっと思っていた、だからこの一言を聞いて肯定された気持ちになったのだ(別に自分が強いのだと言いたいわけではもちろんない)
よもやこの一種の傷つきやすさがなければ、この感覚がなければ、他に一体何に気がつけるのだろう、やさしさを見失ってはいけない、見失いたくない
と最近自分に手一杯でめちゃくちゃ性格が歪んでそうな自分に目を覚ましてもらうための回想でした