20190221
長らく楽しみにしていたアッバス・キアロスタミのリマスターがリリースされ、早速ジグザグ道三部作(『友だちのうちはどこ?』『そして人生はつづく』『オリーブの林をぬけて』)を観たが本当に素晴らしかった
久しぶりに映画というものそれ自体に感動するような体験をし高揚した
なかでも二作目の『そして人生はつづく』は(蓮實重彦も言うように確かに)完全に打ちのめされるようなものだった
ああ映画には本当にすごい力があるのだ、と
本作は一作目の『友だちのうちはどこ?』の主人公の少年の住むイランのある地域が1990年、大震災(三万人もが亡くなったらしい)に襲われ、キアロスタミは自身の息子とともに、その少年の安否を確認しに行くといった物語なのだが、ドキュメンタリーではないドキュメンタリーオマージュの技法がすごい(うまい言い方あればよかったけど語彙力ないから無理)
どこまでが現実か、どこまでがキアロスタミがセッティングしたのかわからなくなる
老人が言う「映画だって嘘じゃない」というセリフそれ自体がキアロスタミが言わせているのか、あるいは老人自身が意志を持って発した言葉なのか分からず、ひやっとする
そんなシーンがめちゃくちゃ多い
そしてもちろん震災直後の「いま」の状況が愚直に映されているそれは鑑賞者に衝撃を与える
しかし、震災が起きても人々の生活はもちろん営まれているわけで、当たり前に4年に1度のW杯を楽しみにしている人たちがいる
愚直というのは失礼だろうか、しかし大震災が起きたところでも、やっぱりそれぞれ生きるためには水を汲み、薪をくべなくてはならない、そしてサッカー試合を待ち遠しにしている子どももいるのだ
この映画を観る前日、私は知り合いとたまたま飲んでいて、東日本大震災の話になった
まず、そもそもに、「あの時何してた?」なんて話がもうできるように(8年という時間の経過、そして私の成長、当時はまだ高校生だったからそんな話はできない)なったのかという驚きがあった
知り合いの出身地は宮城でちょうど震源も近く津波も目の当たりにしたという
怖かったけどねと言いながら知人を助けた際の話をユーモアを入れて話していた 震災直後は到底出来なかったことなんじゃないかと思った
私はそれに比べれば東京の当時通っていた学校にいたわけで、程度の差はかなりあるのでだからこそそういう話は苦手だった(怖くなかったといえば嘘になるが、怖かったといえば、言い過ぎなのではないかと思ってしまう、だって私より怖い思いをした人がいるわけなんだから)
しかし、当時私の両親は海外にいてBBCから流れる津波の動画を見てかなりのショックを受け、東京という(まだ安全ではある方だろう)場所から急遽私と姉を呼び出し、私たちは震災の一週間後くらいにすぐに日本から離れた
経験せずともその動画は永遠に頭の中に流れ続け、本当に辛かったと言う
経験していなくとも辛さは同等なのではないかと思った
そもそも、その頃私は学校の学生寮に入っていてそこは結構ルールが厳しくて、テレビを見ることは許されていなかった
なので、新聞でしかその様子は分からず、両親がなぜそこまでショックを受けていたのかは最初本当にわからなかった(いま思うと本当に恐ろしいことだ)
程度の差はあれ、皆が共通に経験する、つまり集団的な歴史的変容(例えば震災や戦争)というのは個人の時間を歪める なぜならそれぞれの「日常」が歪むからだ
「いわゆる健康な生活は失われ私たちは立ちすくむことしかできなくなる」とも言える
話が真逆かもしれない(けどメモだから許して〜)
集団的な歴史的変容があっても個々は生きるために生活をするために日常を取り戻そうとする
しかしその日常というのは以前のものとは違って、それまでの時間とは違った時間が流れているはずである
そこに流れる「時間」とは、そんなことに最近は関心がある